2009年01月20日

1月17日の授業

◆入門教室
格変化に注意しながら、疑問文とその答え方を
学びました。

◆初級教室
複文の練習問題のプリントをしました。第1問を終了。次回は
第2問と続きます。そのほか、映画のシナリオスクリプトを読み
ます。はじめの方、よく読めるよう練習しておいてください。

◆中級教室
「家庭の仕事」のプリントでしたが、最初必要な単語、特に動詞を
かなり発音練習と同時に説明があり、その後本文を最初から読んで
訳 しました。プリント終了です。新しいプリントは道を尋ねる
内容のものです。

◆講読教室
Чеховの Шуточка、52ページ2行目まで進みました。
新しい参加者はいませんか。 

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2008年04月30日

5月3日は懇親会です

5月3日は研修祭です。
授業はありません。
13:00から

ウオッカ、ボルシチ、黒パン、ケフィールパンなどいろいろ
あります。お楽しみに。
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2006年12月04日

1994以降の歴史

この記事は加賀谷秀男さんによる1994年以降のものです。それ以前の記事は下段に掲載されています。(文責: 疋田朋幸)

1994年5月
キルギスタン民族アンサンブル 塩釜市民交流センターホールで公演
遥か6千キロ、時間と距離を越えて中央アジアからシルクロードの響きが聞こえる。代表的なキルギスタン民族楽器コムズの演奏、口琴(テルミ・コムズ)の演奏はキルギスタンの山々や遊牧民の心が伝わる感動(ユーラシア協会塩釜支部主催)
移川、加賀谷、通訳応援

1994年
第15回女子アジアバスケットボール選手権大会
(ロシア語圏、中央アジア、キルギス、カザフスタン共和国チーム来日)
熱戦の模様を河北新報に投稿「熱戦が花開く友好の輪」掲載

1994年
極東国立大学へ1ヶ月間留学(一般市民社会人の外、学生の参加―創価学会、新潟大学、立命館大学、関東国際高校、東京外国語大学―夏季ロシア語研修) 経費総額−21万円
Кареного Мария さんと知り合い、学生3人連れて彼女宅訪問、日本料理店 長崎にも招待される。
期間中、市内観光は自由に随時行う。 市バス、電車は無料。

1994年9月
第2回日露フォーラムが金沢市で開催された。 地域住民交流の発展のために  参加
II Японо-Российский форум
(встреча г. Каназаве)

1995年
チャイコフスキー−ジュニア国際コンクール開催(8月25日〜9月10日)第一回仙台国際音楽コンクール−[滞在者のしおり]を露文で作成。
ДОБРО ПОЖАЛОВАТЬ В СЕНДАЙ!
ようこそ 楽都 仙台へ!
Путеводитель по району для международных экскурсий
префектуры Мияги.
II международный юношеский конкурс имени П. И. Чайковского.
チャイコフスキー−ジュニア国際コンクールは世界の国々から楽都仙台に16歳以下の174人の若い音楽家たちが結集。これを支援するボランティアは国際交流の貴重なチャンスとして活動。
ロシア語圏から大勢の関係者が来日。ホームステイ、通訳ガイド、練習会場案内等、ロシア語学習者全員奉仕に汗を流す。ホテル青年会館には常時交代担当。 

1995年6月
サハリン北部大地震被災地向け救援物資(車椅子5台)を高内正人
(みんなガンバレ阪神大震災障害者支援センター仙台代表)の依頼によりサハリン州政府社会保障局モロゾフ局長宛におくる。

1995年
多賀城市に国際交流協会設立。事業計画にロシア語研修決まる。 ロシア語講座開設、受講者30数名。 講師 宮原ラーダさん。   1年間
*多賀城市は仙台湾が近く、ロシア極東の水産物が塩釜港や仙台港に陸揚げされる。ロシア船の寄航で町にはロシア人が行き交う。

1995年9月
仙台国際センターにおいて在仙外国人による「日本語弁論大会」にロシアから代表してセリコフアントン(skiing Japan) 1992年8月来日、チャニ グリアブ(sports-base ball,1992年3月)君が参加 入賞。 この参加は毎年行われた。 ナターシャ、ラーダ、ナリーネ、オリガ、ナターシャ
の息子1996年7月県北中田町にロシアのボリショイ劇場少年少女合唱団が来日、公演、各小学校と交流 渡辺、津田、浅野(サハリンから定住者応援)、加賀谷
多賀城市在住のロシアの少年チャニ グリアブ君仙台のアントン君が通訳として協力。
ボリショイ劇場少年少女合唱団を県北の町登米祝祭劇場で歓迎会
*チャイコフスキー「エブゲーニー・オネーギン」の外、オペラの名曲、ラフニコーフ「春の流れ」、ブラームス「子守歌」他、クラシックの名曲、トロイカ、アムール河のさざ波などロシア民謡の数々を合唱、ロシア語メンバーは地元各小学生との交流会で同伴懇談。

1996年
多賀城市国際交流を進める会主催の国際理解講座に「最近のロシア」と題して宮原ラーダさんの講演。ナターシャさんの「ミンスク事情」、カーチャさんの「ロシア料理」加賀谷の「楽しかったロシアの旅」等随時実施。

1996年10月
第40回ロシア語学力検定試験行われる。3級受験合格(加賀谷)。

1997年
3月26日付河北新報夕刊「わくわくスポーツ欄」にロシア語ボランティア活動内容投稿
ハーフマラソン、ベラルーシ・ミンスクチーム取材記事を掲載

1997年5月
日露友好北海道フォーラム 札幌 Хоккайдоский форум
テーマ: 北海道−ユーラシア地域間友好交流の現状と課題

1997年
ラリーサ先生を囲み、忘年会パーティー開催(レストラン橘すしにて)。
仁科、村松、村上、白土、貞賀、佐藤、福島、佐山、加賀谷

1998年
Светлана Навасалдян スヴェトラーナ・ナヴァサルジャン ピアノリサイタル。 アルメニアの華、待望の来日。エレヴァン国立音楽院の教授 (仙台市戦災復興記念会館ホール)

1999年
日露フォーラムと日本文化週間 7月18日〜7月25日
ノヴォシビルスク、トムスク、ウラジオストックで開催。
駐ロシア大使都甲氏も参列。 地元新聞に掲載。
Новосибирская областная газета "Советская Сибирь" にルポルタージュが報道された。

1999年10月
ロシア国立バラライカ民族楽器オーケストラ and ダークダックス来演。
「赤いサラファン」、「トロイカ」、「ともしび」、「ステンカ・ラージン」演奏と歌声。
宮城県民会館大ホールで開演。美しい調べの中に懐かしい思い出の数々がよみえる!

1999年10月
河北新報に投稿。 「宇宙飛行士に環境保護学ぶ」 掲載。
「フレンドシップ宮城の会」主催でモスクワから22名の会員来仙。
旧ソ連の宇宙飛行士グレチコさんにインタビュー、「地球は青かった!」、「地球を守ろう。永遠に美しく!」は感動的であった。 また、宇宙から見た日本の富士山や桜島も見え、グレチコさんの映写したフイルムから世界の アマゾンの緑、北米の氷河、ナイル川と眼科にめぐるすべてが素晴らしかった。
伊藤、加賀谷

1999年11月
仙台市国際交流協会機関紙に掲載「ズドラストヴィチェ!」(今日は!)ロシア語通訳ボランティア活動が紹介された。ラリーサ・アッシェ講師を囲んでの勉強会風景掲載。
仁科、福島、貞賀、白土、村松、加賀谷

1999年
忘年会パーティー、ラリーサ、ラーダ両先生を囲み(レストラン・悟空ラーメン)
仁科、村松、村上、白土、福島、遠藤、貞賀、、吉田、加賀谷

2000年
ロシアアンサンブル「イリーナ and アレクサンドル」
シベリア アルタイ地区から夫婦のデュエットで歌と民族楽器を披露。
松島観光案内 歌声レストラン 「バラライカ」で開催。

2000年9月
ウラジオストック・ナホトカの旅
平和財団沿海地方支部 РОССИЙСКИЙФОНД МИРА
Приморское краквое отделение
通訳山岡薫(終戦後、ロシアへ帰化した日本人満州在住開拓義勇兵) 同行者ブーラヤ・ワレンチーナ副議長の案内で観光。抑留者引き上げ地、ナホトカへ平和団体の車で直行の旅。

河北新報投稿掲載「同胞の墓守るロシアの老人」
モルスキーの日本人墓地墓参 第2次世界大戦終結記念碑の前で慰霊祭。
アルセーニェフ記念地誌博物館アルチョム市の第3428特別病院の墓地訪問。

2000年
シベリア抑留展示会  協力
シベリア抑留展仙台で3日間開催。 仙台市戦災復興記念会館 平和な21世紀めざし、ノーモア シベリア 戦争を問い直す。 観客延べ2000名

2001年
手作り野菜でロシア人と交流(河北新報投稿掲載)

2001年
エレーナ・カタソノワ女史の公演開催(松本市)シベリア抑留問題
モスクワ大学付属東洋語学大学日本語科卒。
「秋の留学生バスツァー」通訳ボランティア参加 泉ヶ岳登山
東北大学留学生オリガ・ローシャ(法学部)、ヌルエバ・ダリア(土木工学科)と息子、ロースラム参加。

2001年
第一回仙台国際音楽コンクールにボランティアとして参加 5月12日〜6月9日各国から集まった26歳までの若手音楽家がヴァイオリンとピアノの2部門で競い合う大会。


2001年
シベリア抑留展示会 茨城展示会 協力 

2001年11月
ミンスク市長他6名訪問団来仙歓迎会を仙台国際交流会(財)と共済で開催

2001年
仙台ロシア語研修会規約作成(事務局長 疋田朋幸)
顧問 仁科雄三、 講師 宮原ラーダ
会員(2005年現在)
福島一雄、佐藤隆、村松道子、貞賀萬太郎、佐山多佳子、遠藤雄一、疋田朋幸、加賀谷秀男、佐藤久夫、宗像江里子、皆川正芳、浅沼卓生、及川洋、斎藤愛子、太田、大泉美樹、染谷文恵、古川宗平、浦風葉子、小野寺嘉哉、大林美知子、冨樫勉

2002年
「シャガールに面会でき感謝」河北新報 投稿
ベラルーシ出身の画家の展覧会 宮城県美術館

2002年8月
「大河アムールと大自然に触れる旅5日間」ハバロフスクの夏の旅に参加。
日露で広がる平和交流の輪(河北新報)に投稿
NPO法人「シニアネット仙台」から七夕まつりに国外からの短冊(願い事)募集ミンスクの子供たちに依頼した。新たな参加の道を開いた一番町に飾る。


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2006年08月16日

研修会の歴史・メンバーのロシア語活動

仙台ロシア語研修会に私が参加し始めたのは2001年5月からであります。老若男女入り混じり、巷の語学教室といった感じでありました。加賀谷秀男さんが永いこと教室を取り仕切っておられたようだ。これくらいしか私には教室の歴史は分かりませんでした。 あるとき、元東北大学教授の鬼さんのことを話される方がいました。この人は鬼先生が在職のときに開かれたロシア語教室に参加されたことがあるといいます。 鬼教授とは私は忘れもしません、吉展ちゃん事件を思い出します。 誘拐犯の音声を録音してその解析にあった教授でありました。 当時私は北海道大学の2年生でありましたが、朝日新聞に毎日載るコメントの主の名をたまたま記憶していたのであります。 私はこの研修会との何か知れぬ因縁を感ぜずにはいられませんでした。 ともかく、今、分かることを記録しておきたいという思いで、加賀谷秀男さんにお願いして執筆していただいたのが以下の記事でああります。 
加賀谷さんが実際に執筆に当たったのは2003年から2004年にかけてであります。(文責-疋田朋幸)


ロシア語ボランティアの歩んだ道

(序文)
旧ソ連が崩壊し困難な再生の道を乗り越えたロシアは今先進諸国に仲間入りし国際的に重要な位置を保持している。この大国ロシアは日本に最も近い隣国であり、双方とも必要な友人として世界平和へ貢献する責務をもっているものとして期待されている。今「日本の中のロシア」について言及するならば、歴史的には江戸時代から交流が始まっていて1792年ロシアが初めて遣日使節アダム・ラクスマンをエカテリーナ号で根室港に入港させた時からである。以後ロシアやヨーロッパの文化が流入し、その交流史跡は日本の各地に今も存在し残されている。例えば、郷土宮城においては明治の幕開けと共にいちはやくロシア正教がもたれされ、旧北上川の岸辺には木造の教会堂が昔のままに残されている。近年になって町と町とが仲良くする市民の草の根運動が発展し、姉妹都市提携等既に日本とロシアでは42の自治体が交流を始めている。かっての私は個人的には「シベリア抑留」戦争体験者であったから、ロシアとの関わりには深いものがある。これまでボランティア活動を通じて世界の平和と友好の国際交流活動に努めてきた。抑留で覚えたロシア語を縁に、また青年期には多くのロシア文学に刺激されてきたことから、地域の友人たちと、国際交流の発展に努力してきた。地域の市民や行政が連帯して各種のイベントを企画する中で、外国語(ロシア語)に取り組む環境も整い、ロシアに関心を持つ人たちは多様になった。実際にロシア語を使って仕事をしている人、大学でロシア語を専攻している学生、サハリンで幼年期をロシア人とともに暮らしてきた人、観光でロシアを見たいと思っている人、ロシアのバレエを学びたい人、チャイコフスキーの音楽やロシア民謡に憧れている人等、各々それぞれが異なった目標をもって熱心に学習に取り組んで、そのエリアはますます広がっていると実感する。仙台市周辺には外国人は1万を超えていると言われているが、ロシア人は170名も居住している。毎年開催する交流会には多数が参加している。国際交流会や日本ユーラシア協会、ベラルーシ姉妹都市協会等の支援にボランティア活動も活発に展開している。これまでのこれらの足跡を「引継ぎノート」として記録し今後の活動の発展に寄与できれば幸いと思っている。最後に日本に一番近く、世界最大の陸地面積と1億4千5百万の人口を持つロシア、この国の人々と友好、平和の関係を維持し、文化、芸術、スポーツ、経済、政治などの各方面の交流を発展させるためにロシア語の学習、普及活動は不可欠である。各位のご健闘をを祈っている。(文責-加賀谷秀男)



1982年
ロシアの各地を巡る交流の旅、宮城県民の船が総勢85名の乗客を乗せ仙台港を出港した。ソ連船オリガ・サドフサウカヤ号(Ольга Садовская)が母港ウラジオストックから出迎えに来航した。津軽海峡を経由し沿海州のナホトカへ向かった。渡航者はナホトカからハバロフスクへシベリア鉄道に乗り換え、更にロシアの奥地へユーラシア大陸の広大な地域に向かって、ハバロフスク空港から飛び立った。当時シルクロードの旅に憧れていた私は、子供の頃から「月の砂漠」に夢があった。タシケント、サマルカンド、ブラハの街は古代の「絹の道」と呼ばれた文明の遺跡が多く残されていた。。ロシア語に堪能な人たちが存分に会話するのを羨ましく思った。この旅から刺激を受けて、以来私のロシアの旅は毎年続いた。1990年有志が集まって「ロシア語勉強会」をはじめることになった。戦前ハルビン学院でロシア語を修得された仁科氏の好意により、氏の経営する事務所が教室にあてられ勉強会が発足した。当時仙台でのロシア語講座は東北大学文学部の鬼春人氏を中心に学生たちが学んでいた。さらに東北外国語専門学校でも、一時ロシア語講座を開設したが長く続かなかった。一般市民が学べるようになったのは旧日ソ協会(1949年創立、現日本ユーラシア協会)仙台駅前周辺にある「歌声喫茶バラライカ」では盛んにロシア民謡「カチューシャ」や「トロイカ」が歌われ若者たちの憩いの場所となっていた。伊藤光威氏(元宮城教育大学学長)の回顧記事から引用すれば1954年(昭和29年)5月仙台市公会堂において日本ロシア文学の公開講座が開催されている。講演者は知名な専門家たちで、八杉貞利、米川正夫、中村白葉、原久一郎。除村吉太郎、東郷正延、神西清等、当時地方でこれだけ有名なロシア語、ロシア文学の専門家が一堂に会することは、稀なことで計15名の方々が講演されたとある。この公開講座のお膳立てを担当されたのが鬼春人先生で、仙台市民のロシア語熱もいよいよ高まっていったと語っている。近年になり仙台市に国際交流協会が設立されてから、国際センターがボランティア活動の拠点となった。登録する人たちも増え自主的に「通訳・ガイド部会」を発足させ、各種国際交流イベントに参加しながら語学の研修が部門別に行われるようになった。ロシア語研修会は現在東北大学の疋田助教授が引き継いで献身的にその任にあたられ、ロシア語を学ぶボランティア育成に貢献されている。我々のモットーは言葉は通じなくても人と人の間に国境はない、ただ言葉を知っていれば更に深く理解し会えるはずであると信じ行動している。仁科氏の母校の旧満州ハルビン市には十万余のロシア系住民が住んでいた。兵役時代の私もこの街を訪れたことがある。異国情緒も華やかに繁華街のあるキタイスカヤ通りには白系ロシアの娘さんたちが美しく装い通りを行き交う姿が印象的であった。仁科氏の教室には仙台に居住するロシア人主婦たちが講師として協力された。
 私ごとながら1945年8月のときソ連軍が参戦し満州に侵入し、まもなく第二次世界大戦は終結した。 ロシア語との始めての出会いとなった。 カントーラとよばれる収容所の事務室に一人だけ日本人として派遣された。20歳の時であった。毎日朝早く起きてペチカを燃やし部屋を掃除し出勤するソ連将校たちを待っていた。労働を管理するロシア人は宿泊しながら共に生活していた。私の親方は囚人上がりで乱暴なロシア語で仕事を指示した。しかしやさしいところもあって、ロシア料理の手伝いもさせられ、食べ物には恵まれた。3年間黒パンを食べて暮らした。ダモイ(Домой)の後もその味の郷愁は忘れられず今も横浜のロシアパン店から取り寄せている。当時ロシア語の修得は  シュトー エータ? Что это? (それは何ですか?)から始まったようだ。単語を覚えるのに悪戦苦闘した。私のロシア語はいろいろ批判されているが、それはラーゲリの環境のせいであろう。そもそも、ラーゲリはソルジェニツィンの「収容所列島」にあるごとく帝政時代の流刑人、また独裁者スターリン時代には政治犯などを収容する所で、マイナス40〜50度の寒さでは大きな口もあけられなかった。私のロシア語は東北弁ロシア語である。それでも仙台にいるロシア人は私のロシア語を良く理解してくれ、いつも愛想良く迎えてくれた。家庭に呼ばれてロシア料理をご馳走になったりした。高齢になった今も彼らと交流し、格好に良いシルバーライフの生き甲斐を実感している。今発足当時からのメンバーたちを思い浮かべながら、クラスの人たちとの雰囲気も良く、毎回楽しみながらロシア語の受講を続けている。

*ロシア語に貢献された人たち(敬称略 順不同)
仁科誠三 村松道子 佐藤隆 福島一雄 村上道子 白戸常雄 貞賀万太郎 伊藤清子 伊藤喜美枝 梶原洋 渡辺乃梨子 加藤豊子 阿部ノリ子 山本明美 角田実菜 叶芳江 松村好夫 高橋義明 横山信弘 斎藤隆 星多美子 長谷川和江 阿部幸子 移川仁 林むつみ 遠藤裕一 小野寺貞雄 佐山多佳子 佐藤晶子 佐藤添子 大塚幸子 岩田裕子 石力由美 小野原史子 高橋多賀子 遠藤ヨウコ 吉田勝良 阿部倫巳 菊池勇治 トロイカ谷 松浦信子 佐藤わか子 皆川正芳 浅野貴央 遊佐(サハリン)等である。

*ロシア語講師、助言者には在仙の多くのロシアの女性たちが貢献された。
ティーナさん,Тина(リガ大学)、アンジェラさん,Анжела(モスクワ大学)、ターニャさん,Таня(モスクワ大学)、ラリーサさん,Лалиса(タシケント大学)、ラーダさん,Лада(ノボシビリスク大学)、ヤルニヤさん,Ялня(イルクーツク大学)、マリーヤさん,Мария(ノボシビリスク大学)、ヌルバエワ ダリア(カザフスタン)


*語学研修はロシアへの旅や地域の国際交流から始まった。事項別に抜粋して記述する。

1980年
最初の私のロシアの旅はバイカル湖遊覧から始まった。シベリアの古都イルクーツクは革命時代の初期「だかぶりストの妻たち」のロマンで有名。シベリアの開拓史である歴史や文化に感動、街は当時の帝都ペテルブルグを模って造られ美しい街であった。

1982年
宮城県民の船 仙台港から出航  参加者85名   *若干人員の出入り変動あり
@モスクワ・レニングラード・コース  35名
Aモスクワ・ミンスク・コース     30名
Bシルクロードコース         10名
Cシベリアコース           10名
三春 亀谷 駒本 庄司 伊藤 仁科 矢崎 遠藤 高橋 今野 柳田 岩崎 角田 吉田 加賀谷 島本 参加

1985年
ロシア・コーカサス地方とグルジア、アルメニア二大都市の旅。
8月ヨーロッパは30度以上の暑さが続く、コーカサスの最南端はトルコやイランと国境を接するアルメニア共和国の首都エレバンがある、1600メートルの高原の街で「ノアの箱舟」で有名なアララット山が日本の富士山によく似て美しい。高原の湖セワン湖を過ぎグルジア共和国トビシリに到着。豊かな水量で流れるクラ川を中心にして、その両岸の傾斜地に古い街トビリシは広がっていた。キリスト教、ユダヤ教、回教などの寺院が混在し複雑な歴史の変遷を物語っていた。メーンストリートを一歩外れて住宅地ののぼる道は昔ながらの石畳で、いかにも温暖な土地らしく、二階建ての家々にはバルコニーがしつらえてあり、ブドウやバラのつるがかたまっていた。

1987年
モスクワ・ミンスクとバルト海10日間の旅。美しいコハク Янтарь の海岸、ヨーロッパ中世の街並み、エメラルドグリーンの草原や森。ミンスク郊外ハイティーニはドイツ軍攻撃により村全体が完全に崩壊、ビリニュースのトラカイ城見学、リガ海岸漁業コルホーズ見学、モスクワではボリショイサーカス見学。
婦人の旅に参加。 高橋 遠藤 加賀谷

1989年
仙台市制施行百年を記念、全国親善女子駅伝大会が国際色豊かに開催、ベラルーシ共和国ミンスク市から多数の

選手来仙、ロシア語の応援。白土、小野寺、加賀谷

1989年
7月姉妹都市ミンスクより親善旅行団一行20名が来仙。
ミンスク市長(代理)を団長にマスコミ関係者、文化関係者、医師、企業代表など、ホテル仙台プラザで歓迎パーティーを開催。ロシア語ボランティア多数参加。

1989年
1986年4月のチェルノブイリ原発事故で被曝した少女2名(13歳、名前は同じターニャさん)を迎えた。仙台市内の家庭にホームステイした。かれはガールスカウト、ボーイスカウト日本連盟の招待で来仙下。蔵王山麓にキャンプをはり、二週間の滞在中ロシア語ボランティアとして参加した。結婚式には招待されたが出席できず、3年後キエフ旅行で彼女らと再会した。両親とも出会い感謝された。

ウクライナ、キエフ州 Иванков 市 Таняさん、Броворы 市 Таняさん 文通始まる。途中、文通は中断したが10後また再開、彼女らは結婚し、小学生の子供も育っている 1990年。

夏の軽井沢にてロシア語夏季講習会開催(東京からロシア人講師を招く)
加藤、長谷川、加賀谷

仁科会計事務所にて第1回ロシア語学習の集い開会式。
ラトビア共和国、リガ大学からゲボルギヤン テーナさんをゲストに迎える。
仁科 加賀谷 貞賀 白土 阿部ノリコ 伊藤 加藤 村上 村松 山本、角田、長谷川、高橋

コーカサス地方スタブロポリ州ピャチゴルスクのインナさんと文通始まる。

1991年
10月ハリスト正教会にてペテルブルグから来日のミハイル神父を囲みロシア語研修。神父はラリーサ夫人を同伴、仙台に1ヶ月滞在ロシア正教伝道のために来日した。シベリアで狩猟生活7年間中に(東シベリアの密林の山林官の職種に従事)独学で日本語をマスターされた。多くの漢字を知っていて、一人一人に黒板で親切に教授された。 それ以前は大学の教授として、また、夫人のラリーサさんはレニングラード市の医科大学を卒業し、内科医として勤務されていた。「私は信者になった」と告げた夫人とともにシベリアに移住した。帰国後もたびたび書簡を賜りロシアの学習を助言された。今はサンクトペテルブルグの郊外にある教会に牧している。
梶原 伊藤 叶 村上 阿部 角田 山本 長谷川 加賀谷

1992年
1月ミンスク小児科医院から仙台市立病院に派遣の研修女医ターニャさんとアーニャさんとの懇談会。(チェルノブイリ原発事故関連−仙台市の事業計画ミンスクの医療研修班3ヶ月交代で2年間継続、その都度交流)ロシア語学習のメンバーも度々交流会を開催した。同国の厳しい経済状況から数多くの要望が寄せられた。医療機器や研修医の受け入れなどチェルノブイリの傷はなお深く残っていた。
仁科、伊藤、間山、谷、村上、阿部、白土、谷さん(一番町で居酒屋トロイカ経営、ロシア料理は Очень вкусно! 大変美味しい!)「ミス仙台に選ばれた人」。

*ターニャ 正式名 Якубоская Татьяна Николаевна
*アーニャ 正式名 Маслюк Анна Николаевна
勤務 Врач педиатр Минск детская городская клиническая
больница ミンスク市立小児科病院

1992年
ウクライナと黒海の海(Поездка в Украине и Черном Море)
ヤルタ Ялта −オデッサ Одесса −キエフ Киев −ハバロフスク
Хабаровск
チェーホフの夏の館と太陽の街ヤルタは素晴らしい。ヤルタで刻む思い出は真珠のように輝き続ける。日ソ協会創立35周年記念文芸作品コンクールの俳句部門に投稿受賞
(全国ユーラシア大会総会)
@チエホフの桜の園に涼を恋う
A暮れてなお人のゆきかう合歓の花
B向日葵のどよめきコサックの馬駆ける

1993年
第3回仙台ハーフマラソン大会、この大会は毎年恒例の行事となる。
第1回ライサ スメーフノワ 女子3位、第2回セルゲイ ソコフ男子優勝

1993年
8月モスクワ自動車道路工科大学(МАДИ)に夏季1ヶ月ロシア語短期留学
МАДИ Москсвский автомобильно-дорожный институт
*この種の留学は毎年行われている。世界各国の受講生と合同。
参考:往復旅費 受講料 観光 寄宿舎生活費含む 25万円くらい

1993年
9月モスクワの社会福祉関係者来日
仙台市内の社会福祉施設を案内。  村松 移川 加賀谷














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